上海爆弾義挙/李康勲


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時はまさに1933年1月の中頃であった。 わたしは本来、何々主義だと標榜することを否定する。

わが祖国を強奪する敵を憎んでいるのだから民族主義だと断定したり、無政府主義と革命事業を

ともにしたからといって、私を黒とみなしたり、あるいは共産主義者と握手したことが過去にあるとい

って、赤と考える人がいるとすれば、それも笑うべき話である。

 私がこのたび上海に来て、無政府主義者と行動をともにし、無政府主義者として知られている白

貞基義士と事をともに挙げたからといって私を無政府主義者と断定することも誤りである。  

 1930年代の上海  その時まで連絡をとりあっていた白貞基義士をまっ先にたずねた。この時の

上海は、11年前に見た上海に比べると非常に変貌をとげていた。まず、フランス租界の福履理路、

歩高里にあるアパート亭元坊をたずねた。ここは白貞基義士をはじめ、彼と志を同じくする革命闘

士、とりわけ世間で無政府主義者と称する人物たちの革命の根拠地であった。ここに集まって来

る人物は口先だけではなく、直接行動で義のためには肉体を鴻毛のごとくに考える革命闘士たち

であった。  

 すなわち、私が逮捕された後、敵を処断して逮捕 され、敵の絞首台で殉死した呉冕稙《一名楊

汝舟》、厳舜奉《一名亨淳》、十余年の獄中暮らしをへて8.15解放で釈放された金聖寿《別名芝江

あるいは朱烈》李圭虎《李会栄の息子、現在鉄道有貞郵逓局長》義烈団の中堅人物として、当時

は教授生活をしていた柳子明《別名友槿》陰に陽に革命闘士たちを助け、指導的な立場にあった

鄭華岩《現在ソウル在住》李守鉉《本名朴基成、現在予備役准将》李容俊《別名千里芳》鄭海里

《一名東吾》、李達ら、多士済済で、見識や勇気や義理の面で信じるに足る集団であった。  

 こうした情勢の中で、ある意味で無政府主義革命闘士が、臨時政府の法統を死守しつつ、抗日

闘争を展開していた金九先生の事業を一時、そのまま引き継いで代行しているように思われたり

した。事実、究極的な目的や理想は少し異なるが、抗日闘争を展開する過程では民族陣営と無政

府主義革命闘士は渾然一体となって独立運動をくりひろげた。また無政府主義的な革命理論は、

いつも理論の貧困によって若いエリートたちを導くのに苦しい立場にあった民族陣営を、理論と実際

的な行動面で補強する力となった。丹斎申采浩や柳子明をはじめとして、多くの自由革命闘士は高

邁な知識人であり、自主独立のために高貴な聖血を捧げた人であった。しかしかれらをアナキストだ

というだけで、その科学的ですぐれた自由革命理論を理解する卓見も推量もないくせに、祖国の光

復運動にうちたてた彼らの輝かしい業績を高く評価せず、白眼視する者たちがいたことは本当に残

念あった。しかし、清廉潔白な彼らは、名誉や利益を度外視して闘った。すでに、人によっては周知

のことであるが、無政府主義の指導的革命闘士の一人であった鄭華岩は、白凡とあい謀って、互い

に緊密な連係のもとに走狗たちの粛清など、多くの事業に協力した。そして、白凡が上海をさらざる

をえなかった時期には、鄭華岩が第二の白凡であるといっても過言ではないほどで、上海フランス租

界の中で革命同志から信頼と協力を受けながら、たえまなく活動を続けた。  

 走狗のやからは、彼の名を聞いただけでも怯える状態であった。とりわけ、1932年頃からそうであっ

た。  

 この頃には義烈団員の活動もあるにはあったが、上海方面ではさして注目するほどの活動はなかっ

た。しかし、義烈団員の中の中心的な幾人かは無政府主義連盟に参加し、猛烈に活動を展開した。  

 1932年、実権を握ったのは陸軍大臣の荒木貞夫であった。荒木は駐中公使有吉明ら彼の腹心を中

国に派遣し、中国国民党の要員を買収しようと画策した。日本円で4000万円の巨額な金を有吉に与え、

中国の敗残軍閥や国民党内の腐敗分子、反逆分子および失意の政客をだきこむために陰謀をたくらみ

始めた。日帝の当面の目的は、国民政府をして反満・抗日運動を慰撫あるいは取締ること、熱河省にお

いて抗日運動を中止させるようにすること、韓人の抗日運動家を取締まるに際しては協力することなどで

あった。万が一この通りに妥協が成立するならば韓・中両国民の運命を左右するほどの暗黒の場面がお

し迫ってくることになる。  日帝の軍閥は中国の執権者をして対日抗戦を終息させ、事実上、満州大陸を

侵略した既成事実を黙認させてしまおうと夢見て、長期間にわたって陰謀を画策し続けていた。それまで

の策動を総括する会議が1933年3月17日、上海の共同租界の文路にある日本人経営の高級料亭、六

三亭で開かれることになった。  時は1933年3月5日、場所は上海フランス租界にある亭元坊というアパ

ートの二階の床の間であった。集まって来た革命同志は白貞基、厳舜奉、呉冕稙、李容俊、金芝江、李

達、元勲《一名心昌》鄭華岩、李守鉉、そして私、李康勲であった。  有吉は私が処断するから同志たち

は了解してほしいと発言した。……  爆弾は前年、伊奉吉義士が使用したものと同じ性能の最も強力な

ものを用いることにした。有吉らが会議を終え、出てきて、自動車に乗る瞬間に弁当の形にした爆弾を投

げ込めば、必ずや警備をしていた日本領事館警察が私を捕間えに襲撃してくるであろうから、白貞基義

士は手榴弾を奴等に投げ込み、その次におし寄せてくる敵に拳銃を発射し、できるかぎり一人でも多くの

敵を処断しようということにした。……  このたびの失敗は、前に述べたように、私の単独テロ計画を放棄

して同志たちの言う通りにしたがったことが、第一の原因であり、次は元心昌同志の手落ちによるもので

あった。しかし、逮捕された時から白義士と私は、少しも元昌心を怨む気はなかった。事をやってみてどう

したわけかこのような結果にいたったのであるから、いかんせん。元心昌同志も気魄にみちた革命家とし

て、人間的にも立派な人物であった。また、日本社会運動の先覚者であり、大思想家である大杉栄と、

もっとも親しい間柄であった。また、彼の先輩でもある朴烈とともに、無政府主義的な革命家して、日本に

居留する韓人の無政府主義的な自由革命家の代表的な人物であった。  この文を書いている1973年7

月は、元心昌がこの世を去ってから満一年になる。彼は昨年7月4日、念願していた祖国の統一を見るこ

ともなく異域の日本で逝去した。  

 白義士は1935年5月22日、長崎刑務所で獄死した。  

 ……  ここでもう一つ、私が明かにしなければならない問題は、団体の名称である。当時、どの新聞にも、

あるいはその後、現在までに出版されたどの独立運動史にも「黒色恐怖団」という名称が散見されるが、事

実は、このような団体はあるはずもなく、このような名称を使ったこともなかった。この名称が生まれたわけは

私たちが有吉を爆殺することに決定し、白義士や柳子明、呉冕稙、鄭華岩と私の五人が善後策を考えている

時、私たちがこの闘いを断行した後、世間に声明書を発表しなければならないが、団体の名称をどうしようか

というのが問題になったからである。  しばらく、座中が静まりかえっていたが、柳子明が敵が聞いても恐怖

を感じるよう「黒色恐怖団《BLACK TERRORIST PARTY》」にしようと提案した。その話に反対する者はなく、

そのまま決定されたのであった。これは一回きりの幽霊団体であったが、従来からあった既成団体のように

知られるところとなったのである。


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この暴圧を見よ!!

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李康勲

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長崎裁判所

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元心昌

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『自由聯合新聞』

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